「空気をみつめる」 「そこにある友情」 ー 蛭川亮監督作『院生と社会人』

空気をみつめる

「あの時間」や「雰囲気」等、映画は時に観客の忘れかけていた記憶を呼び起こしてくれます。『院生と社会人』が観客の記憶に触れるシーンに満ちているのは、本作が「空気」をみつめるというシンプルにして奥深く困難な仕事を、驚異的な精度で成し遂げているからに他なりません。光、音、匂い等々感覚器官により体感する情報に加え、言葉と思考、感情云々数多の要素が複雑に縺れ合い、「空気」は像を結びます。「空気」とは、漫然と体感する「リアル」の只中における、微細な情報のアンカーであり、ソレは印象的な時間/瞬間として記憶されます。全く時と場所、人物や状況が異なる場面に遭遇した時に何故か感じる既視感の背後には、記憶の海で抽象化された「空気」の類似性がしばしば横たわっています。

では、本作はどの様に観客に「空気」を感じさせているのでしょうか。映画に、起伏に富んだ物語、こと複雑な物語を語らせようと試みるならば、個々の映像は成るべくブレなく正確に、情報を観客に伝達する必要があります。トップダウンで、個々の映像を使役する。こうした方法で到達しうるタペストリの如き素晴らしい映画は多々ありますが、『院生と社会人』はこれとは少し異なるアプローチを試みている様です。本作では、ある一日の出来事が、約30分という尺をたっぷり使って描写されます。詰め込まれていない、つまり必然、個々の映像に課せられる「物語」を伝達する、という責務は軽減されます。各カットは、大きな物語のパーツとして苛酷に使役される事を止めた時、目前の出来事を活き活きと伝えはじめる側面があります。登場人物の感情の揺れ、他者との間にふと張り詰める緊張感、張り詰めては弛緩する場の移ろい。これら「微細な要素」が自らを主張する余地が生まれます。そして、こうした細部が、まったく視聴者を飽きさせないどころか、如何に刺激的で面白いのか、という事に改めて気づかせてくれます。それは、観客各々の記憶の引き出しの奥に仕舞い込んであった「空気」を解凍し、本作ならではの映画体験として結実します。

意味伝達を目的とした短いカットとは異なり、長いカットには否応なくノイズが入り込みます。ここでノイズと呼称するソレこそが、意味や意図に明確さに回収されない「間(あわい)」であり、「空気」を構成する「微細な要素」の正体と言えます。物語後半、酒に酔った「院生」と「社会人」二人のキャラクターが夜の街を歩くシーン。長尺のワンショット撮影です。だらりと弛んだ時間にふともたらされる本当の瞬間。親密さの中に訪れる疎遠さ。少しギクシャクとしながら弛んだ場を尚も維持しようとする、身に覚えあるあの感覚。現実の時間、あの「空気」が丸ごとパッキングされているようにすら感じさせる必見のシーンです。

文 / 小池篤史

そこにある友情

人は自分の友人を、何故友人と言い切ることができるのでしょうか。

一緒にいて楽しいから。付き合っている時間が長いから。あの時あの場所に偶々一緒にいたから。一方で付き合っている時間が短くとも友人と呼べる人は確かにいるし、一緒にいて楽しいわけではないけど偶に会う友人もいたりします。この人とは会話はいまいち弾まない、互いに気を遣っている感じもある。でも間違いなく友人だ。そういう関係性の人もいます。友人が友人たる為には、実に様々な理由があります。

「院生と社会人」はこうした友人関係の絶妙な手触りを正確に映画へと落とし込んでいます。

主に描かれている二人の人物は、タイトルから推察されるような【院生VS社会人】という単純な二元論的構図に収まりきることはないです。

監督本人が演じる院生は日々のタスクを淡々とこなす中で、自身の信じる学問の道を行くことが如何に孤独なのか思い知ります。そこに救いの手が差し伸べられることはなく冷酷に毎日は過ぎていく。

他方で社会人の側は軽妙な感じです。ホモソーシャルな価値観を颯爽とまとっていて、それはある意味で日本社会で競争し勝ち抜く為に不可欠な素質である。ただ、アカデミックな場所に身を置く院生にとっては時折気味悪く映ってしまう。にも関わらず、出世や結婚、生活という観点においては明らかに社会人の方が人生のコマを進めていて、この複雑さがより一層院生を悩ませる……。

こうした身分と生活のコンプレキシティが二人の関係性へもろに反映され、絶妙な友情関係を醸し出しています。そして何よりこうした二人の関係性を生のまま伝える脅威的なカメラワーク。特に終盤の長回しには目を見張るものがあります。青春/友情の終わりの始まりを匂わせるようにも感じられるし、しかし何事も起こらず変わらないままのような、あの曖昧な夜。誰にとっても共感できる原体験がスクリーンには確かに映っています。

また、この作品の見どころは芝居にもあります。

院生役は当時大学院生だった監督本人であり、その言動や動き、細かい仕草に至るまで大学院生らしく演じられている。というより再現されています。故に人物に一貫性が生まれ、この映画がまるで身近にあるリアリティのように感じられるのです。

大学とは一体どういう場所か。彼らは何故大学で学ぶのか。そうした問いが迫真性を持って観客の投げかけられることでしょう。

文 / 菊池路介


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